山梨県内避難者の活躍レポート

【レポート8】富士山の見える地を第二の故郷として

福島県南相馬市から避難した鎌田さん

「東日本大震災で被害に遭われて、まさか山梨に住もうなどとは夢にも思わなかったでしょう」という絆ネット取材スタッフの問いに、「はい」と素直に明るく微笑んだ鎌田さん。
「山梨県ってどこにあるかも、把握できていたわけではなかったんです」というその地が、鎌田さんご家族の第二の故郷になった。
南アルプス市飯野にある、景観に恵まれた市営団地に鎌田さん一家が移り住んで春には二年が経つ。富士山が見える場所で子育て中の鎌田さんは、かわいい二番目の息子さんと一緒に絆ネットの取材に応じて下さった。



南相馬市での被災から南アルプス市まで

福島第一原子力発電所の爆発事故後、「遠くに逃げなくちゃ」という一心で山梨に来た。
「避難所生活は常にその場その場でいっぱいいっぱい、この先どうしようなんて考えるような余裕はありませんでした。」と鎌田さんは言う。「安全なところに逃れたいと、ただそれだけでした。」と。
福島第一原子力発電所から北に24キロの地点にあった自宅は、新築し半年前から住み始めたばかり。離れがたい気持ちはもちろんあったが、震災翌日には避難を考え始め、玄関先に荷物をまとめておいた。二回、三回と続く原発の爆発、不足していく食糧、品物のないスーパー、いつまでもここにはいられないという思いから、3月14日、決意して家族と共に家を後にする。鎌田さん夫婦と子供二人、鎌田さんの両親と妹と姪の八人で一台の車に乗り、どこへ行くあてもないまま避難しなければという一心で出発した。
街中を消防車が、「避難する人は自主的に避難してください」と放送しながら走り回るなか、ガソリンの補給をすべく高速道路に入って移動した。その夜は八人で車の中で眠った。
翌日放射能測定に行き、大丈夫との判定で指定された避難所は、二本松のJICA教育施設のようなところだった。子供を連れて、食糧も満足でない日々、しかも一週間くらいすると、避難者の多くはもっと遠くに逃げようと、出ていってしまう。
鎌田さん一家も、もっと遠くへ避難しようと改めて相談し、どこか頼れるところはないかと探した。
目指した先は山梨県笛吹市、理由は「探した中で一番遠かったから」。鎌田さんのお父さんの遠縁の知り合いの伝手を頼って、3月25日、鎌田さん一家は生活用品が全部揃った笛吹市のマンションにたどり着いた。
いつまでいてもいいとの厚意にすがりながらも、毎日県の住宅斡旋機関へ出向いて相談した。その頃は支援用住宅が少なく、受け入れ態勢も十分ではなかったが、入居可能な公営団地は全て見て回り、一番住みやすそうだと感じた南アルプス市営団地への入居を決めた。笛吹市での避難生活開始から十日、大震災からわずか一カ月あまりの4月上旬に鎌田さんは現在の住まいに移った。

山梨定住の決意

きっぱりと鎌田さんは言う「うちはもう戻らないです。山梨に定住します。」
鎌田さんの両親や妹たちは去年の12月までに福島に戻った。それぞれ福島県内で続けなければいけない仕事がある。そして鎌田さんのご主人は、南アルプス市への避難後も勤務先である福島原子力発電所に勤務していた。
南相馬市の自宅のあった地区は、除染も進んではいない。昨年8月には補償も終わった。しかも南アルプスの市営団地は平成26年3月以降の更新はできない。
幾つもの困難を抱えた中から、もう帰らないという選択を強く希望したのは鎌田さんだった。 鎌田さんの希望に応えて、ご主人も山梨で転職先を決めた。
荷物を持ち出すために二度戻った福島は、予想以上に制限や規制が多かった。戸外で過ごせる時間は約2時間まで、夏でも長袖着用、手で触れてはいけない放射能で汚染された物も多すぎてやんちゃな男の子二人を育てる鎌田さんには、あまりにも不便で大変に思えた。更に驚いたのは、線量計を使って窓際などで計測すると、公式発表で知る数値よりはるかに高い値が表示される。色も匂いもない放射能に怯えながら、厳しい制約に縛られた中で息子たちを育てていくわけにはいかないと鎌田さんは思った。

希望

「なにか、支援してほしいことや要望がありますか?」というスタッフの問いに、「もう避難者という感じではないかなと思います」と答えた鎌田さん。 被災後、自ら決断し山梨に来たその力は、既に普通の生活者として生き生きと動き出している。
定住を決めた南アルプス市内に土地を探して家を建てることを目標に掲げた。 昨年四月に小学校に入学した長男、幼稚園に通う二男、学校と幼稚園のママ友が何人かできた。鎌田さん自身も就職を希望していて、仕事を始めればまた職場のつながりも出来るだろうと期待している。

気になることがあるとすれば、山梨にいるはずの福島からの避難者800人のほとんどの人に会ったことがないことだ。800人の中に知り合いがいるはずもないとは思うが、もしかなうなら、同じ年代の子育てをする人たちに会って話してみたい。あれからどんなふうにしてた?子供たちは大丈夫?困ってることはない? ただ話してほしい、話せたらうれしいと思う。

第二の故郷となった南アルプス市に来てから、毎日富士山をながめてしまうという。

鎌田さんの写真 パソコン画面で南相馬市を確認する鎌田さんと息子さん
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