阿部修治さんが、福島から避難した東京で偶然知った「清水国明の森と湖の楽園」、その施設は被災者の受け入れをするという。
2011年3月24日、15センチの雪が積もった森と湖の楽園に、第一号避難者として阿部さん一家はやって来た。
1年数か月が過ぎ、現在NPO法人河口湖自然楽校の代表理事として多忙な日々を送る阿部さんは、
「避難せずに現地にいれば仮設住宅の住民になっていたはずです。道の選択肢やあり方として、自分のこの判断は正解だったと思っています。」と、ご自身の体験とこれからの支援活動について、熱く前向きに語ってくれた。
福島県いわき市、フラガールで有名なスパリゾートハワイアンズの近くに、リフォームしたばかりの阿部さんの自宅があった。阿部さんと奥様、奥様のご両親、そして5歳、3歳、1歳の三人姉妹の7人家族。阿部さんはいわき市営の公設オートキャンプ場で働き、奥様は歯科衛生士の共働き夫婦。おじいちゃんとおばあちゃんが家で孫の面倒を見ているという幸せな三世代家族だった。
東日本大震災に見舞われた阿部さん一家は、一時的に家族全員県外へ避難したが、おじいちゃんとおばあちゃんは、放射線被ばくの危険性よりも故郷での生活を選び福島へ戻った。しかし阿部さんご夫婦は、充分に機能しない土地で線量に怯えながら三人の女の子を育てることに疑問を感じた。遅れがちな政府の発表への反発もあった。県外での避難生活を迷わず選択した。
森と湖の楽園・河口湖自然楽校にたどり着くまでの二週間は、東京の親戚や知人宅で避難生活を送った。阿部さんの実家は宮城県石巻市。津波などの直接被害はむしろそちらのほうが痛手は大きく、親兄弟との連絡もつかない日々だった。そんな中で知る河口湖自然楽校の被災者受け入れ情報は、その後の阿部さんの生活を変えた。
第一号避難者として河口湖に滞在した阿部さんは、やがて自ら「ボランティアの立場で手伝います」と宣言する。被災者支援活動を初めて行うNPOの中で、阿部さんを「支援する側」に立たせたものは、全国から集まったボランティアの士気の高さ、スキルの高さと、かわるがわる出入りする被災地からの子供たちの姿だった。
支援側に回った阿部さんは、避難してきた子供たちに対して、過保護な手助けや甘やかしをしないことを決める。子供たちが被災地に戻る時には、一つでも二つでも自分でできる事を増やして帰そう、そうしないとこの子たちはいつまでも、世話をしてくれる誰かを見つけなければならなくなってしまう、阿部さんはそう考えたのだった。ボランティアと相談し、以後は食事の支度なども子供たちが一緒に行い、勉強も日課として必ず机に向かう時間を持たせた。
そうして自然楽校での生活を終えて被災地へと帰っていく子供たちが残して行った寄せ書きの中には、「こんどはぼくがたすけたい」と書かれた文字もある。
現在、自然楽校の支援活動は、滞在を受け入れる形での緊急支援は終了し、被災地での復興支援活動が中心になっている。
さらに自然楽校では「生きるチカラキッズキャンプ」の実施や、社団法人震災復興救命協会の立ち上げなど、去年一年間の震災復興支援活動のなかから学んだ「次の災害に備える防災体質へのシフト」という考えを根底に持つ事業が展開される。
阿部さんと奥様はこのNPO法人河口湖自然楽校で働き、長女は小学校に入学した。二女と三女も保育所、幼稚園に通い、順調な路線になったと阿部さんは言う。「前の震災は決して終わっていませんが、次の災害時に周りの人を助ける意味での活動にも重点が動きつつあります」
そんないま、阿部さんは何を望み何を思っているのか・・・
「戻れるものなら昔に戻りたいというのはありますが、亡くなった人は戻ってこないし、汚染された土地や建物もすぐには戻せない。前を向いて生きていくしかないんです。被災者が前を向いて生きていくためには、行政の緊急雇用対策など、ある程度経済活動ができるようになるまで、打ち切らず続けてほしいと思います。被災者の起業支援も一人でも多くの人が受けられるようにしてほしい。あの震災があっても、せめて新たに笑える人生にするんだと、その方向へ努力する力は、まだまだ失っていないと思うので、やられたなコンチキショウという気持ちで今、生きています。」