高橋清さんは、福島県内に八町歩の山林を有する百年続く林業家系の後継者である。地元の森林組合に勤務し、伐採や下草刈りなど山での現場作業に従事していた。家族は、奥様とご両親、震災当時高校三年生と中学三年生の娘さんが二人、ともに進学が決まっていた。高橋さんの父親も八十歳を迎えてなお現役で、日々元気に山で炭焼きをしていた。
守るべき山があり、自然と共存していくことが代々続く高橋さん一家の姿だった。地元福島の自然保護に関心の強い高橋さんは、絶滅危惧種モリアオガエルの繁殖・育成をするボランティアグループにも参加し、活動をしていた。
それら自然とともに、高橋さんの日常生活の中では「原発」も確かに一つの風景だった。自宅は福島第一原子力発電所から直線距離5.4キロメートルの位置にある。一抹の不安を常に抱えつつも、緊迫する危機を感じることはなかった。
高橋さんは震災前の状況を語りながら、ふるさとの原風景として、唱歌「故郷」の歌詞を引用する。
山は青き 故郷
水は清き 故郷
ふるさとの自然を尊び、慈しみ続けた高橋さんの日常は、その時を境に、なす術もなく消えた。
―当日はどこにいて、どんな状況でしたか?
次女の中学の卒業式に出たあと、家内と次女を連れて、大熊町から北へ15キロの浪江町にある家内の実家に行く途中でした。浪江町内の食堂でB級グルメで有名になった太っちょ焼きそばを食べて、ちょうど店を出たころです。緊急地震速報が携帯に入ったのを見て、高校生の時経験した宮城県沖地震を思い浮かべながら身構えて間もなく、立っていられないほどの大きな揺れが来ました。自分の想像したものをはるかに超える揺れだったのは言うまでもありません。
浪江町の商店街の壁が崩れ、土煙が立ち始めました。私たち家族は、幸い無事でした。いったん揺れがおさまると、街中は崩れたものがありながらも避けて通れる状況だったので、助けられる人がいればと思い、商店街の中を歩いて行きました。崩れた店舗に近付いて声をかけたり、ボイラーが壊れたので水栓を止めてほしいという家の止水をしたり、高齢者の手助けをするなど、しばらく周辺の手伝いをしました。
そのあと自宅に安否確認をし、いざ自宅に帰ろうと車を出したのですが、道路の陥没と渋滞とで主要国道に出ることができません。仕方なく迂回をしながら山沿いの道を選んで走りました。道には段差ができ、女性などは運転がしにくい状態でしたが、すべての車が譲り合い、誘導し合うなどして、なんとか車の流れを作っていたのです。
普通なら20分程度の距離を、1時間ほどかけて自宅に戻りました。
移動中、防災無線で絶えず流れていたのは、津波が来ているので海には近づくなという警告でした。それでも我々が知っている津波は大きくても3メートル程度。防波堤を超えてくる波のイメージは、その時点では誰も持っていなかったと思います。
―ご家族や近隣の被害は?
自宅に戻り、家族6人揃って無事を確認しました。そのあとすぐに、地域の班長をしているため、近所を一軒一軒回って周辺住民の安否確認をしました。家屋の倒壊や屋内の散乱は見られたものの、近隣にけが人や死亡者はありませんでした。
この時点で、既に電気、水道、電話は不通、ガスも使えませんでした。少しだけ漏れ出ている水道水を、ポリタンクに溜めました。震度4~5の余震が続き、室内は散乱していましたが、布団を敷ける分だけは片づけて休みました。頻繁に起きる余震が怖くて、近隣では車の中で過ごす人が多くみられました。
発電機を使って、情報を得るために聞いていたラジオで、地震の規模がマグニチュード7.8だと知り、津波が押し寄せていることも知りました。テレビをつけると見慣れた宮城県名取市が津波に襲われている映像を見て、あまりの凄さにショックを受け、テレビを切ってしまいました。防災無線からは海に近づくなという声が流れていて、沿岸地域にいる友人知人のことが気になってしかたがありませんでした。
夜9時に、原発から3キロ圏内に避難指示が出て、その時初めて原発で何か起こったのだと知りました。
翌12日の朝には、我々10キロ圏内住民にも避難指示が出ました。集会場に手荷物を持って行き、避難用のバスが来るからそれに乗るように、という指示です。その際、具体的な持ち物指示や期日の通達はなく、「身の回りの物を持って避難」というだけです。
私は6年間の自衛隊経験があり、緊急時のある程度のシュミレーションはできていました。避難指示から集合までの30分程度の間に、我が家では毛布を一人一枚、手袋、トイレットペーパー、ペットボトル、着替え三日分などを用意し各自が持ちました。家内と母は、貯金通帳も持ち出し、娘たちと家内は、生理用品なども持ちました。荷物は、両手が自由になるように工夫して、毛布も丸めて紐を通して、肩からたすき掛けにしました。
集会場に行くと、ほんの一時的なことと思ってか、とても身軽な状態で集まって来ていた人がほとんどでしたが、我々の装備を見て家へ荷物を取りに戻る人もいました。その後、避難は自家用車でも良いということが告げられ、我が家も改めて車に鍋、フライパン、米、炭と七輪、水などを積み込みました。最悪の場合を想定して、テントも持ちました。
―どのような経緯で山梨に来られたのでしょう
車で出発した私たち家族は、避難所には行かず、原発から17~8キロ離れた都路地区にある叔母の家に避難しました。その地区は電気が通っていたので、絶えずニュースを見ていたところ、1号機の爆発が報道されたのです。
我々は東京電力の過去の説明で、地震の際に原発は、緊急停止装置が作動して止まる、制御棒が入って安定するとずっと聞かされてきました。更に絶対に爆発しないと言われていたものが爆発したのです。もうこれは、ダメだと思いました。
間もなく20キロ圏内にも避難指示が出て、叔母は親戚の家へ行くことになり、我々は二本松というところにある家内の母親の実家に一時身を寄せました。
このころになると、スーパーやコンビニでは品物がなくなり、補給のめども立たないということでした。
とにかく何とかしようと思いました。原発の状況がさらに悪化して3号機が爆発した時点で、山梨への避難を考え始めました。中央市にいる従兄弟に連絡して、準備を始めましたが、ガソリンがあまりないため、会津、新潟、長野の経路で山梨に向かう計画を立てました。
それでも15日になって、移動行程の困難を思い心が折れそうになりました。やめようかと迷う私に、「危険を回避する方法を考えてほしい」と言って力をくれたのは、娘たちです。
結果こうして、山梨での生活にたどり着きました。
―現在は、ご家族一緒に生活されていますか?
二人の娘は、それぞれ進学が決まっていた福島県内の学校に入学し、寮生活を始めました。娘たちを支えるため、家内は福島に戻り、いわき市にある大熊町の仮設住宅に入りました。
現在、笛吹市では私と両親の三人で暮らしています。
―お仕事はされていますか?
会社勤めをしています。避難してすぐテレビ取材を受け、放送を見た会社の人が声をかけてくださり、スムーズに就職ができました。
避難指示が出たあとの福島県内では、大渋滞が発生していました。同じ方向へ向かって避難する車が、数珠つなぎになって何キロも延々と道路の片側車線を埋め尽くす一方で、対向車線には車が一台も走っていません。それでも、誰一人、対向車線を使って追い越したりはしませんでした。対向車線は、災害救援のための車が来るかもしれないことを認識していて、皆とても冷静だったのだと思います。これが私の避難体験の中で、非常に心に残っていることであり、伝えたいことでもあります。
政府は、諸々の発表の遅れを、住民がパニックを起こさないためと言いますが、あの冷静に避難する光景を見たら、パニックなど起こりはしないと思えます。原発の情報や政府方針は早い段階で開示すべきです。
例えば福島の産物も、早めの情報、対策、対応ができないとこのままでは売れないままになってしまうでしょう。日本の他の原子力発電所は、「柏崎刈羽」や「浜岡」という地名になっているのに、福島は県名がついてしまっているために、福島県の汚染されていない地域の農産品も、流通状況は悪化する一方です。
また、保障に関しても思うことがあります。震災後、私の住んでいた家も土地も、町全体がそのままになっていて、放射能は、目には見えない、触ってもなにもわからないのに、測定器には信じられないような数値が表示されます。そこを除染をして全町民帰宅というのは、一つの選択肢ではあるでしょう。でも、帰らずに他の土地を探すという選択もあっていいのではないでしょうか。そのどちらに対しても支援をしてほしいと思います。
今はこうした避難生活ですが、ある程度時間がたち、子供たちの進路も決まったら、その後のことを決めようと思います。
子供たちが小さいころ、川で泳ぎ、秋にはキノコを採ったり、お金で買えないものが生活の中にありました。それを求めていきたいです。
福島原発事故によって、全国的に放射能を気にし始めましたが、できるだけ放射能を意識しなくてもいいような生活がしたいのです。安心して水が飲める生活は本来当たり前のことだったのに、その当然のことに不安を感じるというのでは、生活は成り立ちません。
元通りの生活でなくてもいい、生まれ育った場所でなくてもいいから、安心してある程度の生活ができるようになれればいいと思っています。