震災 そのとき
以前東京製菓学校で講師をしていた後藤照夫さんは、家族を東京に残し、単身気仙沼にて16年間菓子店を営んでいた。震災の日も普段と同じように営業していたところへ地震が起きたとのこと。以下は後藤さんのお話し。
いつもの町内放送なら「地震がありました。津波の心配はありません。」などと穏やかなものなのにその日は「逃げろ!大きな津波が来るぞ!逃げろ!」という切羽詰まった口調で繰り返し避難を促していた。
私は心臓のバイパス手術をしたばかりの身体であり薬と保険証を2階に取りに行くのがやっとで、お金や携帯電話も持たずに山に逃げた。
山から見下ろした街の渋滞している車には知っている顔もあったが津波でほとんど流されて死んでしまったらしい。津波に襲われた街は泥水を入れた洗濯機のようで車も家も何もかも渦に飲まれ流されてさらわれてしまった。
さらに津波の第二波は障害物が無くなった街を、ものすごいスピードで襲い流れ去っていった。
その後は漏れた油に火が着いて、所々で火事の炎と煙が出て、まるで戦争でも始まってしまったかのようだった。
逃げた山は初めての場所で結局50名ほどが幼稚園に集まって避難しライフラインが途絶えた山中で見ず知らずの人たちと食糧を分け合いながら、余震におびえて数日過ごした。
一週間ほどで主治医に電話が通じ、山形か秋田の病院に紹介状を書くと言われた。山形県の教え子が自動車の燃料をかき集めて迎えに来てくれた。車窓から見た仙台は、まさにゴーストタウンだった。
しばらく通院したのち東京に出たけれど仕事もなく、逆に通帳の残高や個人情報のすべてを晒さなければならず、難しい事と感じた。
そこに40年来の山梨県の友人から声が掛かり、富士吉田に移り住むことにした。気仙沼からも従業員を呼びよせパン屋を開店した。
独自に開発したクリスタルカーボン入りの黒いパンをメインに販売し、地元のパン屋さんと競合しないように努力している。もの珍しさから遠方からも買いに来てくれたりお土産として売れたりしている。山梨の友人の厚意には感謝している。
お店は国道沿いにあり、富士吉田市の友人の親族が営んでいた民宿の跡地で、店内はその名残があるものばかりで、新たに買い揃えたものはない。
クリスタルカーボンはケイ素・カルシウム・鉄分を豊富に含んでいて健康効果が期待できる。
10年以上気仙沼で支援学校の講師をしていた経験もあり、地元のふじざくら支援学校へもクリスマスケーキを作りに行った。親御さんは教室の外で待ってもらって、作業は生徒に任せて、顔にクリームを付けようが形が崩れようが構わずケーキ作りをしてもらい、おいしくできたケーキを頬張った生徒の笑顔は最高と先生も笑顔だった。
これからも声が掛かるイベントは断らず、勝沼朝市やお隣の静岡県にも行くつもりで、暖かく迎え入れてくれた山梨県・鳴沢村を有名にして恩返しをしたい。
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